マーティン・スコセッシ監督による2016年の映画『沈黙‐サイレンス‐』を見た。原作は遠藤周作の小説『沈黙』だが、そちらは読んでいない。
以下の感想には少々ネタバレが含まれているので注意。
残酷シーン多し
正直気楽に見られる映画じゃないですね。かなり残虐な拷問シーンが多く、見ていて気分が悪くなる。これが日本ではPG-12で済んでるのが不思議ですよ。
子供が見たらトラウマ不可避。大人でも精神に多大な負担がかかる。
『ジョーカー』はR-15だったけど、『サイレンス』のほうが何倍も残酷。(というか、『ジョーカー』に年齢制限付ける必要あったのかな。ハサミのシーン以外特に怖くないのにね。)
『サイレンス』は気軽に人に勧められる映画じゃない。スコセッシファンや遠藤周作ファン、キリスト教に関心のある人は既に見てると思うし、この手の映画を見て楽しめるタイプの人は多くないと思う。下手したら心に傷を負う。
やっぱりエンタメ映画の対極にある作品だと思いますよ。マーベル映画(MCU)は映画じゃないと言って批判した監督が撮っただけのことはある。
確かに多くのことを考えさせられるけど、いやーな気分になるのは避けられない。ちっとも楽しくはない。尺も長いし精神修行だと思って見るべし。楽しいものが見たい人にはマーベル映画のほうが良いと思う。
あらすじ
ざっとあらすじを書くと、イエズス会の若い神父二人が、棄教したという噂のある師を探すため日本を訪れ、そこでキリスト教に対する苛烈な弾圧を目にし、後に自分たちも弾圧の犠牲になるという話。
悪代官みたいな陰湿な役人が、キリスト教を信じる農民に対し残虐な拷問や処刑を繰り返しながら神父に信仰を捨てるようネチネチと迫る。
お前のせいで民が苦しんでるんだから宗教を捨てろと、目の前で拷問や処刑を行って見せつける。非人道的で気分が悪い。
それにまぁとにかく拷問のバリエーションが多くて嫌な感じだわ。史実を元にしてるらしいけど、誰が考えたんだよ一体。
やっぱり権力者にとって弱い者いじめは楽しいのかね?人間の本性ってそんなものなのかね。そこがテーマの話ではないと思うけど、そっちが気になってしまったよ。
無駄に残酷で、痛めつけるのを楽しんでるようにしか見えん。キリスト教をいくら警戒してたといってもやり方がエグすぎる。
監獄実験の結果を見て分かるように、条件が揃えば喜んで残虐行為を行うのが人間の本性か?人間が残酷なのは時代や洋の東西を問わないのかね。
良かった所
嫌な所ばかり書いたけど、良かった所もあった。
とにかく全編に渡って映像が美しい。びっくりするくらい自然や風景が美しく撮られている。
そしてリアリティがすごい。本当に当時の日本を見ているかのようなリアルな映像。大河ドラマなどとは比べ物にならないほど本物感がある。
それだけに拷問シーンのエグさが際立つっていうのもあるのだけど。
あと洋画にありがちな変な日本になってないのが良い。よく分かってるなと。(例えば『ラストサムライ』は酷かった。明治時代に忍者って…。)
日本人の価値観、宗教観についても語られていた。大日のこととか。
原作を書いたのが日本人だからっていうのもあるのだろうけど、日本のことをしっかり理解した上で撮られているのが分かる。
ただ、なぜか当時の普通の日本農民が英語を喋っている。そこだけ微妙に違和感あった。発音がアレだしカタコト気味だったけど、実際にはそのレベルでも喋れてないよね。
神父がポルトガル語じゃなく英語喋っているから、英語はポルトガル語だと思ってくだいねってことなんだろうけど、当時の庶民がポルトガル語を喋れたとも思えない。
神父と日本人が通訳なしでコミュニケーションを取れないと話が成り立たなくなってしまうから仕方ないとは思うが。
信仰心の不思議
この映画で描かれる日本の信徒たちの強い信仰心がよくわからない。どうして命をかけてまで宗教を信じられるのか自分にはなかなか理解できない。
過酷な生活を強いられているのは分かる。何かを信じていないと、とても生きられないような苦しい生活なのだろう。
彼らにとって宗教は救いであり生きるためには必要不可欠なものなのだろう。でもそのために殺されてしまっては元も子もないだろうと、どうしても思ってしまう。
不愉快なことに、残虐行為を行っている役人側の言うことにも一理あるように思えてしまうのだよな、信仰心の薄い自分からすると。
形だけでも信仰を捨てたことにして、こっそり心の中だけで信じてればいいじゃんと思ってしまう。
いるかどうか分からん神のために死ぬのはもったいないっていう考えが出てきちゃうよ。
それと、日本に来た若い神父二人も、上の人から危険だと言われているのに、あえて遠い極東の国日本に渡ったんだよね。
極端な話、この二人の信仰心がそこまで強くなく、危ないから行くのやめとこって思ってたら酷い目に遭わず済んでた。巻き込まれた農民が苦しめられることもなかった。
信仰のために命をかけるというのは見方によっては美しい姿勢だけど、別の見方をすると不合理で誰も得をしない姿勢にも見える。
キチジローのこと
この映画にはキチジローという、キリスト教を信じているのだけど命惜しさに何度も踏み絵を踏んでしまう男が出てくる。そのたびに彼は苦しみ自責の念にかられるのだけど、彼の行動は責められるべきものではないと思う。
誰も殺されたくはないし、他人に信仰のために死ねという権利なんて無いと思うよ。
キチジローは、劇中の人物だけでなく映画を見た人からも「心の弱いクズ」みたいに言われてるけど、彼はとても誠実だし、ある意味で強さを持っていると思うよ。
何度絵を踏んでも信仰心は失ってないんだから立派じゃん。そんなに自分を責めるなよと、見てて辛くなるよ。
彼は偉いよ。自分なら弾圧怖いから仏を信じとこってなるよ。
終盤、キチジローはキリスト教に関係する物を身につけているのがバレて連行され、おそらく処刑されたのだけど、あれは自ら望んで処刑されに行ったんじゃないのかと思った。
何度も背教した罪の意識に耐えられなくって、わざと見つかるように持ってたんじゃないのかなと。苦しみながら生きるより殉教したかったのかも。
棄教者に対しても定期的にチェックがあるのは分かっているのだから、どこかバレない場所に隠しておけばいいのに、あえて身につけていた。しかも、ちょっと調べれば分かるような身につけ方だった。
ただこの見つかることを自ら望んだという見方が正しいか分からない。弱い人間だから信仰に関わるものを持っていないと不安で仕方なかった。だから、危険を冒しても持ち続けたという解釈のほうが自然か。
ところで自殺はダメだけど殉教ならOKというのも不思議なんだよな。なんか、非キリスト教徒の自分からすると、信仰を捨てれば助かるのに頑なに信仰を守って殺されるのは自殺と同じように見えてしまう。
映画の終わり近くでは、転んだ(棄教した)ように見えた神父も心のなかでは信仰を捨てていなかったことが描かれた。
どんな激しい暴力をもってしても、人の心を曲げることは出来ないというメッセージなのかな。心の中には自由があるってことか。
いろんなことを考えされられたし、評価が高いのも分かるけど、もう一度見たいとは思えない。精神的に辛すぎる。